何気なく見てしまうTwitterやFacebookといったSNS。
いろんなものがタイムラインにあふれ、
見る人がちょっと「受け身」になっちゃうこの感じって、
けっこう「テレビ」に近いのかな、なんて思ったりしています。
だから、あまりにも過激な表現やネガティブなことっていうのは、
暗黙のうちにNGになったりしてますよね。
その点、このブログ。
見る人はわりと「よしっ」ってなってクリックするわけで、
「映画」とまではいかないまでも、見る人の積極性が必要だったりしますよね。
だから実はSNSなんかよりとっても自由な場なのかな、
なんて思ったりしています。
と前置きが長くなってしまいましたが、
つまりブログでしか書けないようなことを書いてみようかな、
というお話です。
母が亡くなりました。
病名は「クロイツフェルトヤコブ病」。
その名が世間に浸透したのは、今から十数年前のBSE問題。
そう、狂牛病です。
牛から人に感染という確率は低いのですが、
ごくまれに、突発的に発症するケースがあるそうなのです。
その確率、100万分の1。
潜伏期間は長いものの、
ひとたび発症するとものすごいスピードでアルツハイマーが進行していきます。
事務員で頭の回転が早い母でしたが、2011年初め、突如仕事でミスが多くなりました。
家事でも支離滅裂なことが多くなり、
自分へのショックでふさぎ込み、
一人だとパニックを起こすようになりました。
いっしょに住んでいた兄も、最初は何だか分からずに母を責めてしまっていたようです。
その異変が度を超し始めた2011年春。
ようやく精密検査をして、初めて先の病名の疑いが浮上しました。
正直、自分にとっては東日本大震災がかすむほどの大きな出来事でした。
その頃には、聡明だった母が、数字を1から10まで順番に数えられなくなっていました。
さらに検査入院が必要という前夜、
ボクは兄と母の住むマンションに泊まりました。
初めて兄と飲みました。
そして激しい口論になりました。
こんな病気と分かった以上、今後どうしていくべきかという話をしたかったボク。
まだその病気だと決まったわけではないのに、そんな話はしたくないという兄。
お前はそんなにその病気の方がいいのか?
母を殺したいのか?
こちらは最悪の話をしたいだけ。
お互いがこんな論調では話がかみ合うはずもありませんでした。
兄は憤慨したまま眠り、ボクはそのまま飲めないお酒を飲み続けました。
明日は仕事の兄に代わって、ボクが病院にいっしょに行かなければならないというのに。
次の日。
案の定、目覚ましにまったく気がつかなかったボク。
大切な検査入院に遅刻なんて!
慌てて時計を見るも、なぜかほぼ時間通りでした。
ふと横を見ると、母がボクの体をゆすっていました。
まさか数字が分からなくなった母が起こしてくれるとは。
本当に病気ではないのでは?
そう思った母の横には、紙とペンが。
そこには、ふらふらの字で、必死に時間を計算している様子が書かれていました。
母として、子供を起こさなければ。
その思いで、必死に何時間も前から時計の前にいたようでした。
涙が止まりませんでした。
そこからの数ヶ月は、刻々と、そしてものすごいスピードで病気が進行していきました。
記憶は薄れ、言葉を忘れ、手足もついに動かなくなり、寝たきりとなりました。
不思議と姉、兄、ボクが呼びかけるときは、かすかに表情や指先に反応がありました。
2012年夏。
ついにいくら声をかけても何も反応しなくなりました。
それでも伸びる爪と髪。
死生観というものが分からなくなったのもこの頃だったように記憶しています。
その頃には要介護も当然「5」。
いっしょに生活をし、誰よりも母を愛していた兄は、在宅介護の継続を決意しました。
その代わりヘルパー・訪問介護の方々など、すべての介助が必須となりました。
看護士でもある姉もできる限りサポートし、
ボクも二人に比べれば微力ながらも、幾度となく都内と兄の家を往復しました。
2015年1月1日。
元旦が誕生日だった母は、67歳になりました。
長く続いた介護生活の中、兄も前年末に結婚。
お嫁さんもできる限り介護を手伝うと言ってくれていた矢先の出来事でした。
2015年1月16日。
その日、介護していた姉の腕の中、母は静かに呼吸を止めました。
人見知りで恥ずかしがり屋だった母が、
もう迷惑をかけたくないと言っているかのようなタイミングでした。
粛々と進めなければならない葬儀の準備。
その中で、遺影は自分たちで用意することにしました。
なかなか笑顔の写真が見つからず、ようやく見つけた一枚。
慣れないPhotoshopでボクが切り抜いたものを、兄がきれいな額に飾ってくれました。
やさしくも、どこか短絡的な「兄」。
看護士と娘という立場の狭間で揺れていた「姉」。
自分の生活を犠牲にしていないことに負い目を感じていた「弟」。
それぞれの性格、立場。
母の介護が続く中、本当は一致団結しなければならないのに、
残念ながら最後まで3人が1つになることは結局なかったような気がします。
しかし、遺影を作ることで、やっと3人が1つになれたのでは。
そんな気がしました。
いつもと同じように進んでいく時間。
でも、どこかゆっくり流れているような感覚はまだ晴れません。
人見知りで恥ずかしがり屋だった母。
兄とボクとで作った遺影。
たった一枚、笑顔だった母の写真は、
姉の結婚式のときの写真でした。